気持ちの整理を
初めに。
世界を明るく照らしてくれた、輝く彼に深い哀悼の意と、「お疲れ様、ありがとう」という言葉を送ります。
(個人の見解や、ショッキングな場面、また筆者のプライベートな内面がたびたび出てきます。そういったものに耐性のない方や、そもそも知りたくないという方は閲覧を控えてください。)
2017年12月18日、夕方。
私は自分の目を疑うとともに、殴られたような印象を受けた。
しかし、どこか胸の中で、「あぁ、きてしまったのか」と思った。
私が日ごろの寝不足を嘆いた7分後に、そのニュースを見た。
「どうか僕を行かせてほしい。よくやったと言って」「最後のお別れ」
まったくもって信じられなかった。どこか夢のようで、しかし現実であった。
ちょうど風呂に入っていたため、のぼせたのだ、そう思った。
検索すればするほど、情報が交錯していく。何が正しくて、何が間違っているのか。もう、冷静に物事を判断するだけの思考力は、私には残っていなかった。
それから何時間が経っただろうか。正式に、彼がこの世から旅立っていったことを知らせる声明が、所属事務所から出された。
その何分後かに、彼が友人に託したという「遺書」も、SNSを通じて世間に発表された。
正直、読むことが怖かった。彼が「死んだ」という事実だけでも、「私」を持っていきそうだったのに、それを読むと完全に引き込まれると思った。
私が彼の「死」をここまで引きずる理由は、自分も「そうなりえた」、その一つに尽きるだろう。
私はなぜか、彼が精神疾患で苦しんでいることを知っていた。当然ファンであれば小耳にはさんだこともあるかもしれないが、私はずっと違うグループを応援していて、彼らのことは尊敬する先輩、としか思っていなかった。
なぜそこまで深く彼のことを知っていたのだろうか。まぁ大方、どこかで見聞きしたのだろう。本来ならばそんな真実か噓かも分からないような話を信じるような性格ではないが、なんだろう。
彼にはその噂を信じてしまうほどの危うさを感じていた。
いつもステージの上で一生懸命、それこそ命を削ってまで歌ったりダンスをしたりしている姿を動画等で見ていたが、近年それに危うさが付いて回っていたように思う。
こんなことを言うと、彼らだけを一途に応援しているファンの方々に申し訳ない、本当に申し訳ないが、全体的に危うさと儚さを感じた。
確かに、私たちからしてみればアイドルというものは手の届かない、存在していないものであると思いがちだ。最初は、そういった視点からの儚さ等であると思っていた。
しかし、そうしたことを抜いてみても、どこか胸騒ぎがした。大きく、彼が離れていくのを感じた。
……話がだいぶそれてしまったが、まとめると、少し前から彼には兆候が見られていたのだ。しかし、それを大事とはとらえていなかった。それが何かを引き起こすとは、私は、思ってもいなかった。
結果、彼は自ら、「終わり」を選択した。
私は結局、彼が書いた遺書を読んだ。読む前にも、私の奥底から2~3ヵ月前の最悪な「私」が現れていることに気づいていたが、それをなんとか押し殺し、最後まで読んだ。
その時、初めて、彼の死が確実に形を持って私の前に現れた。
また、「死」というあまりに確信の持てないもの、遠い存在のものが、私のそばに、近くに、そっと寄り添った。
「死」を隣に感じたとき、怖かった。そして同時に、ひどく懐かしかった。
こんなにも間近に終わりが迫っているという状況に、一種の恍惚ささえ、感じた。
終わらせたくない思いと、終わらせるのならばそれは「自分」だけであるという、それはどこか義務や覚悟にも似た小さな「自分のため」の誓いを感じ、私は一気に体の芯を冷やした。
行ってしまう。彼の方に、彼を追いやった何かに、私は、このまま、連れていかれる……。
……彼の遺書を読みながら、私は自分が2年ほど前に書いた、自分自身の遺書の存在を思い出した。
実は2~3ヵ月前から、私は自分と向き合ってきた。昔のトラウマに引っ張られ、何もできないふがいない自分を変えようと、今現在もトラウマに立ち向かっている。
幼少期から今までにかけて起きたすべての良いこと、悪いことから目を背け、感情を隠し、なんとなくやり過ごしながら、「自分」をないがしろにしてきたことに、やっと、20年生きてきて気づいた。
それらを起きた当時に適当にやり過ごしてしまったため、今から向き合うとなると相当のエネルギーと心を消費する。それでも、私はこれをやり遂げなければ、前に進めぬ気がしていた。
自分をないがしろにしたために、私には楽しかった思い出も、悲しかった思い出も、同じタスクとして記憶されている。楽しいことを"楽しい"に分類することも、悲しいことを"悲しい"に分類することも、あまり感覚がなくなっている。
情けないだろう。驚くだろう。信じられないだろう。
そうやって過去の自分を清算していく中で、私は2年前に書いた遺書の存在にあらためて気づく。あの時、私は何に怯え、何を思い、遺書を書いたのか。久しぶりに、その内容を確認しようと思った矢先の、彼の死であった。
彼の死は、否が応でも私を過去の死と向き合わせた。
過去に、本当に死にたいと、消えてしまいたいと、そうすれば楽になると信じてやまなかった私と、このたび久しぶりに向き合った。
過去の私が書いた遺書は、彼のそれのようには整理されていなかったが、やはりというか、仕方がないというか。
彼の書いた遺書と、似た部分ばかりであった。
2017/12/21